『Japanist No.5』-ジャパニストの美術散歩-掲載記事


縄文の記憶、未知への開墾



大胆な着想と繊細な技、先人や自然への畏敬と創造的破壊。
二元論を自ら実証し、調和させる陶芸界の巨人。

陶芸家
坂田 甚内
Jinnai SAKATA

高久 多美男—構成・取材・文
Text by Tamio TAKAKU
作品撮影/林 茂範

- 何かに導かれるままに益子へ

黒陶窯変波状文箔押大鉢 「始動」
(2009年) 左/W480xD480xH230
右/W560xD560xH260

アートとクラフトがみごとに調和した、坂田陶芸のひとつの極致。
坂田甚内。現代の陶芸界で、この人ほど、アグレッシブな作家はいないだろう。
とにかく、着想が大胆不敵だ。「僕の前に、道はない。僕の後ろに、道は出来る」という高村光太郎の詩を体現するかのように、次々と荒野を開墾していく。まるでブルドーザーのように。しかも、上空から全体を俯瞰する冷静な目を持ち、縄文へと思いを遡らせることのできる歴史観、宇宙観、自然観、宗教観を携えながら。
その結果、成功もあれば失敗もある。しかし、坂田は失敗を恐れない。周囲の目も気にしない。恐れるのは、芸術家として停滞、それのみ。だから、自己模倣を厭う。
「この国では、ひとつのことをコツコツと続ける人が尊敬されるけど、僕は自分がやりたいと思ったことを迷わずやり続ける」
野球少年だった坂田は、プロを目指し、早稲田実業高に入学した。しかし、中学時代の激しい練習がたたり、ドクターストップを下される。
失意のうちに出会ったのは、文学だった。漱石の知に感銘し、龍之介の美に唸り、朔太郎の情に涙した。ニーチェやドストエフスキーを貪り読み、友人と文学について語り合った。やがて本格的に作家を目指そうとまで至るが、ラディゲが若い時分に書いた作品に打ちのめされ、あえなく断念した。

撤退の決断とはすなわち、己の天分を見極めることでもある。自分は文学者として一流になることはできない、そう坂田は悟った。
また、当時、学生運動が真っ盛りだったが、坂田はそれに欺瞞を感じていた。
「三角形の底辺のことを言いながら、実は頭の上のことしか言ってないんじゃないか、と思った。では、底辺とはどういうものか見てみようと思い、リヤカーを引いて石焼き芋やアサリを売り歩いた」
ある日、酒の勢いもあって、友人たちとどこかへ行きたくなり、上野駅から最終の東北本線に乗り、古河駅に降り立った。そのまま駅のベンチで夜を明かし、真岡線の一番列車に乗った。そして、降り立ったところが益子だった。益子での体験は、坂田の人生を大きく変えることになる。東京へ帰ってからも益子で見た陶芸のことが頭から離れない。数ヶ月後、坂田は布団を持って電車に乗り込んだ。訪ねるあてはなかったが、行ってしまえばなんとかなると思った。そして、本当になんとかなってしまった。なんと、当時、天才陶芸家としてその名を広めつつあった加守田章二の弟子となってしまったのである。土もみ、灰濾し、庭掃き、子守りなどの雑用をこなし、半年を過ぎる頃からロクロの練習を許された。
通常、陶芸界では、「土もみ三年、ロクロ七年」と言われ、独立するまでに十年は要するが、加守田は、早い独立を是とし、坂田は一年半の修業期間の後、二十三歳という若さで独立することになる。


昨日と同じことはしない。


- 荒野の向こうにあったもの

黒陶変波状文刻段扁壺 「陰と陽」
(2000年) 左/W300xD190xH505
右/W235xD120xH450

全体のフォルムは男女のようでもあり、陰と陽のようでもある。

焼〆敲き文花瓶 「時を彫る」 (2005年)
W210xD210xH410

アートの造形美に重きをおく坂田のビジョンがわかる一作。
独立した坂田は、ある古い窯跡を掘り起こし、登り窯を築いた。
しかし、それだけで一人前の陶芸家になれたわけではない。慣れない土地で修業をしながら生活の糧を得なければいけないという、試練を強いられることになる。
「独立して初めて、自分は何も知らなかったということがわかった。だから、仕事をしながら覚えるしかない。人の倍やればなんとかなると思い、その大きな登り窯を年に六回焼くことを自分に課して、毎日十五、六時間、仕事を続けてきた」
まるで野球の猛練習のように一心に打ち込んだ。
しかし、ただ、がむしゃらに創作をしたわけではない。今では坂田甚内の十八番と言える黒と白の窯変を生み出すために、その頃からさまざまな創意工夫をしている。窯の中のどのあたりに置けば、どのような窯変ができるのか、研究しながら自分なりの表現を模索した。
ヨーロッパでは陶芸はクラフトと見られているが、坂田はそう捉えてはいなかった。クラフトでもあるがアートでもある、と。だから、食器も作ったが、それを越えた造形美の表現にも積極的に挑んだ。
もとより、坂田は人と同じことをするのが嫌いだ。誰かが歩いた後を歩くのではなく、未踏の大地に自分の足跡を記す方を潔しとする。当然ながら、待ち受けているのは茨の道であろう。
陶芸家で人間国宝の富本憲吉は、「日々これ新た」と言った。師の加守田章二は、「昨日と同じものは作るな」と言った。いずれも坂田の精神に深く刻まれた。同じことを繰り返すのではなく、形を真似るのでもなく、創造するという精神をこの頃に培ったのだ。
そうやって創作の足腰を鍛えた後、坂田の作風は、輪郭を露わにしてくる。
黒陶波状文。ゴツゴツした黒い肌に彫られた波状の文様。小気味いいほどに男性的で、圧倒的な存在感を醸し出す。その作風に縄文式土器、とりわけ火焔式土器を連想する人は多いだろう。
「縄文の創作の精神は継承したいが、コピーをするつもりはない」と言うが、では、なぜ、坂田甚内は縄文時代の土器に惹かれていったのだろう。